昭和54年5月27日 朝の御理解
御理解第62節「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心もしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
一段一段どのような、過程を持って進んで行くか。又、人よりも我はなおよかれ、と言うと、言うがと仰る。人よりも我はなおよけれと言うような意味は、どういうような事だろうか。そのところを一つ、極めて行きたいと思うのです。
信心の、段階と申します、まず神様を拝むと言うことは、昔から悲しい時の神頼みというような事を言われますように、何か自分の願い事というのが立てられて、その願い事が成就することの為に信心をする、神様を拝むと言うようなことになりますね。そういう信心言わば、願いの信心。同じその願いというても、自分が願っておる願いの内容を見ると、大体自分の信心の段階と言うことが分ります。
願い、そしてお詫び、お礼というような事が言われますが、その願いの内容と言うものがね、願わずにはおられぬもの。そういう私は願いに立つ時に、信心は非常に高度な事になって来ると思うですね。願わずにはおられない。ただ自分の悲しい時、自分の困った時、そのことだけが願いであると言うことは、こりゃ(勿論?)信心の初歩な時だと思いますね。けれども、生活そのもの全体がですね、言うなら(橋の?)上げ下ろしに至るまで、願わずにはおられないと言う信心。
自分の困った事だけを願うというのではないのですね。もう全てのことが願われる信心。同じ例えば願いの信心でも、もう大変な、だから段階があることが分ります。時々、いわゆる(あまえのほし?)のようにお参りをして来て、あれを願います、これをお願いして下さいと言う、それだけで良いのですかと言いたいごとあると言う時、ね、それだけが成就すりゃもう、事足りたと思うておるような信心の人も多いのです。
実を言うたら願わずにはおられない。それはどういうことかと言うとね、いわゆる教祖様が仰る「障子ひとえがままならぬ人の身」と言うことが分るからです。自分の知恵やら力やらというとるけれども、その知恵やら力そのものすらがです、ね神様のおかげを頂かねば(ふうに?)発揮は出来ないのです。いわゆる我無力と言うことですね。「障子ひとえがままならぬ人の身」であるという、その人間の本当の正体、実体と言うものが分って来る。分って来るから、ね、願わずにはおられないと言うことになるのです。
もう本当に、自分の動きの全てがです、そのことを、一々ご神前に出てかしわで打って、御祈念をするというような意味ではなくてです、その心に願い、又はすがっておる。願わずにはおられない。だからその内容と言うものは、非常に、やはり信心が神様を絶対のものとし、自分と言うものを無力の者としての、ね自分には力がないという事。神様が絶対の力を持ってござると言うことをですね、分らせて頂くという所に私は願いの中にも様々な、沢山な段階がある事を感じますですね。
「人よりも我はなおよかれ」と、と言うような、例えば人よりも(むきに?)出ておる信心と、自分で感ずることはですね、どういうようなことかと、これはまぁ私自身のことですけれども、私がおかげを受けておると言う事はね、今も申しますように、様々な願いがありますよね。願いますけれどもね、願った後はあなたにお任せしておると言うことです。ね、私共が無力であればあるほど、「障子ひとえがままならぬ人の身」であると言う自覚というか、それを見極めたところからです、願わずにはおられない。願わずにはおられないから、願う。願うけれども、その後はですね、あなたにお任せする、してあると言うことです。
わが身におかげを受けてと、まぁ私は現在の所で私自身が、まぁ最高の信心というたら、そこのところだとこう思うんです。そこでこの、合楽の皆さんの場合は、そういう稽古を椛目時代のこれは一番初めからそういうことを私は皆さんに聞いて頂いたり、又それを行じていかれる事を願って来たわけです。「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」こりゃ三代金光様のみ教えですね。「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」。私共が任せると言うこと、その任せるというてもです、初めの間は様々な願い事の一つ一つがです、お願いをして神様にお任せをするという、程度のお任せ方ですけれども、今も申しますように、全てのことが願われる。しかもその全てのことがあなたに任せてあるという信心です。いわゆるあなた任せの生活。もう信心生活の、私は最高の、まぁ心境だと、まぁ現在私の信心ではそういう風に思われます。
あなたに任せきってある、ですから任せきってあるのですからね、不安がない、心配がない、ということになるのです。お任せしとるけれども心配でたまらんというならね、まだ任せきっとる証拠じゃ、まだ任せきってる、ということは言えません。任せきっておると言うことなら、心配も安心もない。だから任せるからには、やはり神様が分からなければいけませんけれど、中々神様はね、声もなからなければ姿もないと言うのが神様の、いうなら実体ですから、疑えば、言わば限りがないのです、そこで、それを信じさせて頂く一番の手前のところにです、ここではね、神様任せと言うことを親先生任せと言う風に皆さんが言われます。
ね、親先生任せに、親先生任せになっときゃおかげを受ける、とこう言う、なら確信が皆さんが段々強くなって来る、それはなら私を見るからです。皆さんの前にある、言わば私。ですから、その見るだけではなく、私を研究する事が出来る。先生があんなこと言うとるがほんなこっちゃろうかと、段々そういう言うならば、初めは半信半疑で見ておるけれども、なるほど先生の言う通り、または先生自身がおかげを受けておる姿に触れますから、なるほど先生任せになっときゃ良い、と言うこと。
段々先生が確信付けられて、信じられて来る。ね、その先生と、金光大神が繋がり、金光大神と天地の親神様との繋がりというものがありますから、そこには神を信じたのと同じ事になるわけです。親先生任せ。ね、親先生任せになるという事。
だから金光様の御信心の、まぁ稽古の目指しと言うのはね、神様が信じられその信じておる神様に全てを願い、全てを任せれる、という所まで行った時が、まぁ私は有り難い、最高のことだと思いますが、例えばその内容がですね、同じ任せとるというてもです、非常に段階があると思いますね、けどそれがいよいよスッキリと絶対のものになって来ると言う所に、私共が一生をかけて良いと思います。
昨日ある方が、お参りをして見えた。まぁその方にとっては、ある意味で難儀な問題であり、ま、悲しい問題でもある。歯痒い思いもする問題でもあるわけなんです。そのことを私御取次ぎさせて頂いておりましたらね、昨日その学院に行っております愛子がお花の(てんなん?)会に出品したのが、優先したと。それが、名前も大坪愛山、愛子の愛と山と言う字、愛山と言う名前も頂いて、それが優先したという、その写真と手紙が一緒に送って参りました。
それが何と言う花か知りませんけれどもね、真っ黄な花を付けた着物です、それを、まぁ本当に見事に生きあげてあると言うのですね。後から、こんな風な花です。こりゃもうカラーでとってありますから、黄ない花って事が分るこっちのは。この私がこれ見せて頂きよったら、これを頂くんです、★その難儀な問題のお届け、御取次ぎをさせて頂いて。ね、悲しい問題でもある場合には、または歯痒い思いをするような問題でもある。まぁここで聞きよっても、まぁなんち歯痒いことね、ち言うごたる問題である。そしたらこの、黄ない花をこんな見事に言わば生きあげてあるお知らせを頂いた。
ここではあの、色々なこの赤とか青とかね、色を持ってお知らせを頂く時に、黄なのお知らせは丁度真ん中、言うならどうでも良い、右になっても左になっても良いという時ですね。その黄なの色を頂きますのは。しかもその黄なの色の花を生き上げておる、これが今日私が言っておるいわゆる信心。本当の信心生活とはこれなんだ。そこんところに信心が至っていく時に、私共は不安もなからなければ、心配もないと言うことになるのだと言うわけ。生きあげていくという事がいや、だから難しい、もう限りがないと言う事です。
ね、同じ親先生任せというてもです、その親先生任せのその心をね、生きあげていく。本当な物にして行くとですから、もう限りがないです。ならお花ならお花を稽古しても、十年稽古しても、二十年稽古してもです、これで良いと思う事はないでしょう、芸事の全てがそうですが、ね、同じ花の形に生きあげてあるようであっても、その心がそれに通うほどしのことになって来るためには、おそらく一生が、何の道だって修行であろうと思います。そういう意味なんです。
ね、だから私共、もう椛目の時代からもう二十何年間、皆さんが本当に親先生任せになると言う稽古をしておるけれども、その稽古の、その親先生任せと言うそのことを生きあげて行くと言う稽古がです、まぁだまぁだいわゆる枝ぶりが悪かったり、まだ本当スッキリした本当のものではないと言う所をです、私は信心の稽古と言うことになると思うんです。ですから、そのことを、だからねそれはもう右になっても左になっても良いんだ、という気にならせて頂いたら、ね、おかげと言うことを、私は伝えさせて頂いておる。
お互いの信心がです、右になるようにと、左になるようにと。左にならなければおかげじゃないと言うような思い方はね、それは本当に言うたらつまらん事ですよ。人間の知恵、力でです、どうぞ右になりますようにという、ん例えてまぁ言うならば、ここに百万円のお金がいるから、どうぞ百万円のお繰り合わせを下さいと言うて、一生懸命願う。それがよし、成就した所で百万円でしょう、神様が半分に負けとけと仰りゃ五十万しか頂けんごつなってくるから。まぁだお前は三十万しか、もらう力はないぞと仰りゃもう三十万で。(こうやたと?)にゃいけませんもんね。
ですから、私共の願いが成就すると言う事はね、人間の思いが成就することですから、対したことありません。ね、けれどもあなたに任せると言うことはね、あなたの願いが成就することです。いわゆる神様の願いが成就することです。だからこれにはもう限りがないです。ね、任せる、任せて頂くおかげって言うのはそれこそ夢にも思わんほどしのおかげになって来るんです。だから任せる稽古を一生懸命する。任せる為には、やはり信じられなければ任せられない。ね、神様が信じられなければ、親先生が信じられなければ任せられないでしょう。
それでもやはり痛い事もありゃ痒いこともある。ね、苦しいことそのことを願うわけです。御取次ぎを頂く訳なんです。しかし御取次ぎを頂き願ったが最後です、もうそれから先は親先生にお任せするという姿勢、神様にお任せするという、私は心の状態がです、もうそこには不安もなからなければ心配、任せてあるんですから。自分の身も心もそこに委ねてあるのですから。
ね、例えばバスならバスに乗らせて頂いたら、もう私自身と言うものはそのバスに任せてあるのですから。そのバスの運転手に任せてあるのですから。その運転手を信じておる、その運転手が免許も持たんと、たる、何かっちゅうなら不安でたまらんでしょうけれども、ね、やはりバスの運転手となりゃ、運転手の中でもベテランの人ばっかりでしょう。だからその運転手に任せてある、そのバスに乗って、自分の身をそこに任せてある、委ねてある。だからバスの中でからフラフラ眠りながら、なら例えば久留米なら久留米まで行くようなもんです。
だからその任せれるという、だからここで言うならば、まぁこのお広前をバスに例えるならば、私が運転手。だから私の信心を皆さんが信じて下さると言うことをね、一生懸命研究なさったらいいわけです。ですからそこに親先生任せと言うことになり、合楽教会というバスに乗られたわけ。そこで日々が安心である、日々が安らぎであると言うことになってくる訳ですね。
先生があげん言いなさるばってん、と言うて、ね例えばお願いをしてもです、半分な任せるばってん半分な任されないというのではね、だから本当な事ではない事になりますから、それこそ身も心も任せれるという所に、いよいよ神様の確信というか、先生に対するその信頼心と言うものが強う成って来る、そこに限りないやはり繰り返しの繰り返しの稽古が必要であることになってきます。
ね、私は我が身の上におかげを受けてとおっしゃるのは、そういうおかげだと思うですね。信心してから、難儀を助けてもろうた、信心しよってお金もうけをさせてもろうたと。だから人にそれを例えば話したに致しましてもです、もしならその病気が治らなかったり、もし金もうけがそれこそ出来なかったりすると、あなたからあげん言われて参ったばってん、お金もうけが出来なかったとか、病気が治らなかったと言うことになってしまうでしょう。人を助けられません。
けれども自分自身がね、こう任せきっておれる喜びというか、安心と言うか、ね、そういうその心の安らいでおるおかげ。だからこれは病気が治るとか、災難が除けられるとかそういうこととは関係ないのです。自分自身の心がです、ね、何時も安らぎの中にあるおかげ。神様任せになっときゃこんなにも安心です、しかも安心だかじゃないこのように喜びが共のうておるという、そういう心。そういう心を私は我が身の上におかげを受ける、ということになる。だから、そういう人の姿を見るとです、やはり信心しなきゃ馬鹿らしゅうごと成って来るのじゃないでしょうかね。まぁ極端に言うとそういうことになって来るです。
あの人この頃信心初めちゃるが、何か何時も嬉しそうに、ニコニコしてござる。今までとは何か有り方が全然違う。なるほど信心せにゃ、信心ちゃ有り難いもんだなぁと、例えば感じさせれるほどしのもの。そこから、やはり信心をせにゃ馬鹿らしかと言う事にもなって来る。だからそういう状態と言うものが、まず自分自身の心の中に頂けて来るおかげを頂かにゃならん。
そこで、それを一口になら申しますと、どういうことかと言うと、どうでも良いと言うことなんです。ね、お願いをする、願ったが最後、後はどうでも良いである。右であっても左であっても良い、いわゆる黄ない花と言うことになる。その黄ない花がです、なるほどまたものの見事に生き上げられると言う所に信心の稽古は限りがない、(ふくらすぎての事、どうならあそこ?)言いよりましょう。ね、それが一つの形にまとめられ、一つの形に生け上げられて行くところの楽しみ。これは又大変なことだと思うですね。
私共が一段一段信心が進んで行くと言うことはですね、そういう心の状態が一段一段本当なものになっていくという事。ね、どうならなければならん、こうならなければならんと思うから(気がせく?)のです。ですから非常にこのどうでも良いといったような事はですね、どうでも良いという心はですね、何か無気力なようにも見えますけれどもね、どうでも良いと言うことは今も申しますように、もう身も心も任せたと言う素晴らしい心の状態からしか生まれてこんのです。
不安があり心配がある。まぁなるごつなる、どうかなる。というそれとは全然違うです。不安がない心配がないというほどしのものです。任せきると。そりゃそうでしょうが、今私はバスの例をとって申しましたように、それこそ居眠り半分で目的地につく事が出来るとか、ね、言うならばお金ならお金を沢山持っておる人に、金の言わば借金を申し込む。そりゃどうかなるばのと、例えば言うてもろうたらもう安心でしょうが。
ところが金も持たない者にですよ、お金の都合を頼んでからそりゃどうかなるばのちいうたっちゃ、もう不安でたまらんでしょう。あ、ならあげなこつ簡単に言いよってばってんあの人はほんなこて作って下さるじゃろうか、貸してもらえるじゃろうかと言う不安が、ん、だからそこを信ずるんです、なら先生でもそうです、皆さんがなら親先生任せになると、あげん簡単に言いござるばってんから、果たして先生が持ってござるじゃろうか。信心内容と言うものを。
ね、なる程親先生の仰ることを、に間違いないと確信できると言うことは、私が持っておる内容を皆さんが見極められた時にとにかく、ね、どんな心配事でも御取次ぎを頂いてお願いを致します。さぁお願いを致しますと言うたが最後は、ね、安心だと言うのはそれは先生が内容に持ってござると信ずるから安心が出来るんです。
「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる」と仰せられますから、もうこの辺が体験させてこられる事になって来ると、もうそれこそ私共の願いが成就したといったようなことじゃないわけです。私どもが神様任せになる気になったら、神様の方が氏子任せになる。神様が氏子任せになってくださったどんなったら、これはもう限りがない言わばおかげに繋がるんです。
ね、それを例えば言葉で表すと夢にも思わなかったようなおかげと言うことになるのです。そこで、これは私が十何年前に頂いておるみ教えの中にありますようにね、自分の願いが、願ったことが成就する。と言う時にはね、以上な用心が必要であると言うこと。自分の願いが成就したという所。ま、(あるもかる?)これも願いがかのうたという時にはそんなもの。
願っても願っても、願い通りにならない。右に願えば左になり、左に願えば右になるといったような時、そういう時にはです、神様の願いが成就しておる時と。ね、言うなら神様が氏子任せになって下さるための、言わば地固めが段々出来ておる時。そうしてです、願いもしないことがおかげになり、言わば夢にも思わなかったような事が成就してくるようなおかげを受けたら、そういうおかげが本当なおかげじゃとおっしゃる事は、本当な信心とはそういう信心だということが分かる。
そして、まぁ私が今日までこうやっておかげを受けておる事実をね、皆さんが見て下されば言い訳です。二十年前にこのような、ここに合楽教会が設立されるとか、このようなお広前が合楽に御造営されると言ったようなことは、それこそ夢にも思わなかった事でしょう。ね、それが成就している。それが今日私が申します、「人より我はなおよけれ」という、その私がおかげを受けておるから、なら人よりなお、人より私がなおよけれというおかげは、私の場合どういうことかと言うとですね、私が何時でもどうでも良いと言う気になっておるということです。
なるほど願いもする、頼みもするけれども、願ったが最後はね、神様にお任せしきってあると言うこと。どうでも良いと言うことは。それがね、私が誰よりもおかげを受けておる信心なのです。どうでも良いと言う、というかどうでも良いという、ね、心境というか心持が生まれてくるまでにはです、ね、様々な信心もさせてもらい、修行もさせて頂いて要約ここまでおかげを頂いたと言うこと。人より我はなおよかれ、という人よりも私が少しもしぬきに出ておるとするならばです、誰よりも私は任せる力が強いと言うこと。お任せするという、そこにどういうことになったかと言うと、神様がもう大坪総一郎任せになって下さっておると言うことです。
私の願いが成就するなんて、実にそれはケチな話です。ね、神様の目からごらんになりゃ。もうそれだけでいいのかと神様が思いなさるじゃろうと思う。どうぞ百万円下さい。神様1千万円下さろうとしておるかもしれない。それを百万円下さいと言うて願うて言うのですからね。だから願いがあっても良いけども願ったが最後は、あなたにお任せを致しますという心の状態を作っていくこと。それが今日私が申します、黄ない花を生け上げていくという事、そういうことだと思うんです。
黄なと言う色は、丁度真ん中。どちらになっても良いというまぁ色ですよね。その花を生け上げていくという所には、これはいくら稽古致しましても、稽古致しましてもです、限りがないほどに、私それを本当に生け上げていくということはやはり一生係りだとこう思うですね。
まぁ私が頂いておる、まぁ現在の最高の信心ちいうたら、そのことだろうとこう思う。どうぞ右にして下されなければ困ります。右にして下さいといったような願いを持たないと言うこと。そりゃ右にしたいが、したいと言う思いがあってもです、そりゃ願います。ね、願いますけれどもです、願ったが最後はもう任せてあると言うこと。なるほどなら「神信心も手習いも同じ事、一段一段進んで行くのじゃ」と仰せられるが、なるほど一段一段進んで行くのであり、なるほどにわかに先生にはなれんな、と言うことが分りますでしょう。
どうぞ一つ皆さん、もう本当に神様に任せきれれる生活。それはね、今申します、任せておる、まぁどうとかなろうと、と言いながら不安であり心配であると言うなら、それは絶対任せておるものではない、それは放任。投げあり。投げありの信心ではいけません。もう親先生にお願いしとるけん、どうとかなろうというようなもんじゃなくてです、ね、任せたが最後そこには安心、心配もない不安もないと言うほどしの任せ方。そういう任せ方が出来るところにです、いよいよ信心の言うなら研究であり、勉強であり、がいかに切実に必要であるかと言うことが分ってまいります。
「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」と三代金光様が仰る。いと簡単な表現ですけれども、私共が神様任せになるという事はです、神様を本当に分かる、信じきらなければ任せきれるもんじゃないですね、どうぞ。
梶原 佳行